伊豆 湯河原温泉発見物語
1.恩を返したたぬき
むかしむかし、或る頃、湯河原の渓谷を囲む箱根連山の向こう側、駿河の国(静岡県)の三島宿の奥山で年老いた一匹のたぬきが平穏な毎日を過ごしていたが、或る冬の暖かい日、時ならぬ暖冬の日差しに浮かれ、昼間というのについうかうかと近所の山に好きなえさを探しに出かけた。 すると不意に心ない猟師の弓矢が飛んできて、ぐさっと右後ろ足の根本深く突き刺さった。
驚きと痛さを引きずって、いったんは木陰に身を隠したものの長居はできず夜陰をうかがい、住み慣れた我が家を後に、箱根の山に降り積もる雪に残る足跡を気遣いつつ逃げてきたのが湯河原の渓谷であった。
ようやく落ち着きを取り戻したたぬきに襲ってきたものは、後ろ足の矢傷の痛みである。
舌でなんべんなめてもさらに痛みは消えない。
その時、この老いたたぬきの目に映ったものは、谷の岩間から立ち昇る温泉の湯煙であった。
喜んだたぬきは、早速にその湯で傷を洗っているうちに、予定した日柄よりはるかに早く全快した。
やがて春となった或る日、この老いたたぬきが、春光をあびながらこの度の不慮の災難のことを思うにつけ、不思議な湯河原温泉の恵にいたく感謝し、「これこそ、神仏のご加護というものだ。このご恩を何とかお返ししなければ」と考えた。
その頃の湯河原の谷は、きこりか、山越えの人しか通る者はなかった。
しかも、人影を見る日はな事であった。
やがて、春も過ぎ、夏も過ぎ、山萩が薄紅の小花をこぼす涼風の立つ頃となった或る日のこと、三島宿に商用に出かけた湯河原の下村に住む弥作が商売も早く終わったので、この分なら今日は山を越えても日暮れまでには家に帰れると思い、日金道深く入ったが、めったに通らない道に、とうとう道に迷ってしまった。
尋ねる人にも会えず、民家もなく、ようやくのことで湯河原の渓谷にたどりついた時には、日はとっぷりと暮れ果て、それでなくても暗い木の間の山道は、いやが上に暗くなって、疲労がひとしお身にしみた。
弥作は、我知らずそばの岩に身を寄せてため息をついた時だった。
どこからともなく一陣の風が通り過ぎ、目の前の紅葉した楓の葉を二、三枚はらはら散らしたかと思うと、なんともいえない香りがあたりにただよい、そこに妙齢の美女が頬にえくぼを浮かべて現れた。
三島の宿にもこんな美しい女郎はいないと、弥作は途端に思った。
しかも、その美女が、玉をころがすような美しい声で「弥作さん、大変お疲れですね。この先に温泉が湧いているところがありますから、ひと浴びするとすっと疲れがぬけますよ。妾がご案内しましょう」というままに、弥作は狐に鼻をつままれるとはこんな事かいな。などと思いながら美女の後についてきてみると、なる程、岩陰に透き通った温泉が湯煙立てて溢れていた。
弥作は、すぐに汗に汚れた旅衣を脱ぎ捨てて湯壷に全身を沈め、身体を思う存分に伸ばした。
さて、ふと気がつくと、先刻の女郎はいつのまにかそこには影も形も見なかった。
疲れを取り戻した弥作は走って我が家へ帰り、家人はもちろん、近隣の人々に話を伝えた。
話はたちまち近村にまで広がった。
怨念をこえて、神仏の恩を人間に返したこの老狸の奇特であることが、誰いうとなく知れ渡り、語り伝えられた。
終戦後、心ある人々が万葉公園に狸福神社を祀り、今尚人々に愛されている。
2.役行者による伝説
大和の国・葛城村の役行者(えんのぎょうじゃ)“役小角(えんのおづの)”は、あまりに不思議な言行をするので、その頃の宗教界を刺激し、ついに勅命によって、文武天皇庚子4年、伊豆の国・大島に罪人として遠流しになった。しかし、ここでも少しも変わることなく彼の神通力は続けられ、ある時などは大島と富士山の間を、一夜のうちに鳥のように飛んで、往復したという怪奇な物語も残っている。
さて、彼が大島に流される途中のこと、紫の雲がたなびく伊豆山権現の山をはるかに拝し、ここはただならぬ霊所であるとしてしばらくここにとどまり、同山の第4祖となった。
この頃、彼は湯河原の奥地にもしばしば足をすすめ、湯河原の渓谷の西方にある、“池峯”と呼ばれる山で、修行を重ねていた。
(この池峯は、別名“役行者”とよばれ、昔は役行者が自分の姿を自分で刻んだという石の像が一基、草むらの中に建てられていた)
修行の日を重ねたある日のこと、彼は霊感によって、山の麓の渓谷に温泉が湧いていることをしった。
それから彼は、しばしば山を降りてきては、身を清めたという。
湯河原温泉のそもそもの始めは、こうして役行者によって発見されたという。
3.薬師の湯由来説
湯河原温泉は昔“薬師の湯”ともいわれた。この湯の由来は次の通りである。
奈良薬師寺の僧、行基(ぎょうき)は、後に大僧正の位にのぼり、その高徳、知識は菩薩(ぼさつ)として世の人々にあがめられた。
時に、聖武天皇天平5年12月、近江の国(現・滋賀県)紫香楽(しがらき)に、はじめて大仏を鋳像することの勅命を彼は拝した。
そこでその勧進のため日本諸国をめぐる旅に出た。
ある時、東国に向って旅を続けていた彼が、箱根山を越えようとする夕暮れ時のことであった、暮れ安い冬の日はすでに落ち、あたりは薄気味悪いほど暗くなっていた。その夕闇の道端に何かうずくまっているものがあった。
行基はじっと見つめると、それは一人の乞食であった。
そこで、行基は無造作にその前を通り過ぎようとすると、とつぜんその乞食は大きな声で、
「これ坊主、人を助けて、世を救うことこそ、僧の役目というもの。貴様は俺のこの苦しむ有様がわからんか。俺は癩病(らいびょう)に苦しむものである」。
ふと行基はその乞食をもう一度見直すと、手も足も顔もただれ、うみが赤はだから流れている。
乞食は更に大声で続けた。
「この山の南の麓に湯の湧く渓谷があり、その湯に浴するときはいかがなる難病もたちまちに癒えると聞き、ようやくここまで来たが、病苦のため、もう一歩も進めない。是非そこまでこの俺を背負って連れて行かれよ」。
行基はためらいもなく、その乞食を背負い、岩につまづき、崖をすべり、やっとのことで谷にたどりつくと、乞食の言う通り、渓流の岩間から湯煙が立ち上り、温泉が音を立てて湧き出ていた。
そこで、乞食を背より下ろした。
すると、その乞食は再び行基に言った。
「俺の癩を哀れと思うならば、この着物を脱がせよ。」と。
行基は乞食の言われるままに、うみでへばりついた乞食の着物を脱がせ、その身体を抱きかかえて湯にいれてやると、乞食は更に怒鳴るように言った。
「九仞(くじん)の功、一簀(いちき)に缺くことなかれ。わが全身の癩のうみを貴僧の口を持って吸えば、わが癩の苦しみは早く癒える」
そこで行基が癩のうみを吸い取ってやると、たちまちその乞食の姿が消え、中空に紫の雲がただよい雲の間から薬師如来像が黄金の光とともに現れ「われは薬師如来なり。この度乞食に変化して貴僧の徳を試みた。よく難行を勤め果たした。貴僧はしばらくこの地にとどまり、この温泉をもって難病の人々を救いたまえ。」と言い残し姿を消した。
その後、行基は、一基の薬師如来の像を石に刻み、この湯壷のかたわらに安置し、またこの温泉を“薬師の湯”と名付けて、世の人々を救ったという。
4.弘法大師発見説
「田子の浦にうちいで見れば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」と、万葉歌人を詠わした日本の霊峰、富士山は幾度もなく噴火をおこしたが、延暦19年の4月、72ヵ所から火を噴いて、焼けた溶岩が火の泥のように流れ出し、周囲二十里四方は全て焼け埋まった。更に、2年後の延暦21年5月にまた大爆発をおこし、それによる大地震が2回に渡って大地をゆすり、崖は崩れ、噴火の灰や石は、その頃の官道と言われた足柄道の人馬の行き来をふさいでしまった。
ところが、それから僅か4年目の大同元年6月、またまた大噴火がおこりこの地方の人民は、ほどほど困窮した。
時の朝廷は全国の神社、仏閣に特使をつかわしたり、人民の救済に手を尽くした。
しかし、そのかいもなく11年たった弘仁8年7月14日、東国一体に突然大地震がまた起こり、山は崩れ、河川は氾濫、百姓その他圧死するものが数える事が出来なかったという。
時の嵯峨天皇は、8月19日に真言宗の開祖“弘法大師(空海)”を特使として、関東に実地調査を命じた。
その際、湯河原地方を訪れた大師が、湯河原の渓谷を流れる千歳川の上流で崖から落ちる滝の水で足を洗ったら、その水が温泉に変わったのが湯河原温泉の始まりであると長い間信じ伝えられてきた。
昭和の半ば頃まで、温泉場中央、桜山入口に大師堂があり、清瀧(きよたき)と呼ばれた瀧が、その側の谷に落ちていた。
そして、この瀧を「弘法大師洗足(せんそく)」とも呼んでいたが、今は細い流れだけとなり、大師堂も姿を消した。
5.二見加賀之介重行による発見説
白鳳(はくおう)2年といえば、奈良に都があって、奈良朝文化が、最も栄えた時代の事である。加賀の国(現・石川県)、坪村の住人“二見加賀之助重行”は、名族の血統を持つ武人であったが、文化の改新による新しい政治の圧迫を逃れて山伏となり、同国の白山神社の神威を諸国に広める為、数人の仲間とともに東国さして旅に出た。
彼らは山に伏し、谷をわたり、歳月を経て、湯河原にたどり着いた。
ところが、海は青く、山は清浄、その上、北陸の雪の中に生きてきた彼らにとって、この地方の気候が温暖である事は、彼らをしてこの地にわらじの紐を解かしめた。
早速、一行は北にそびえる山頂に、白山の神霊を祀り、ここを“白山(しろやま)”とよんで信仰の中心にし、また、修行のかたわら、山を崩して畑をつくり、野を開いて田とし、自給自足の生活をはじめた。
今も、一行の子孫はこの地に繁栄している。
湯河原温泉はこれら一行がこの地方を開拓している時、たまたま渓谷から湯が湧いているのを発見したものであると言い伝えられている。
湯河原町ホームページ : 湯河原温泉発見物語より引用